Death March 無職の行進

止まない雨は存在した。

後悔するぐらいなら怒らなければいいのにね

死にたいだとか消えたいだとか弱音をすぐ吐いてしまう。当然、人前では言わない。言って面倒な構ってちゃんだと思われるのが嫌だし、誰に言ったってこの悩みは解消されない。それに口では死にたいと言っていてもそこまで本気かと言われたら、全く違う。

 

死にたいだとか消えたいだとか言うことが癖になってしまっている。なぜそんなことが癖になってしまっているのだろう。嫌なことや面倒なことがあったときには当然、死にたい、消えたいと言ってしまう。それ以外にも、自分の失敗、恥ずかしかったことを思い出した時も同じ気持ちになる。過去の失敗なんて思い出さなければいいのにね。

 

芸能人や政治家なんて自分のせいで不祥事を起こして、世間から袋叩きにされて、謝罪会見までやって晒し者にされてきた人なんていくらでもいる。それに比べれば、僕の恥ずかしかった記憶なんてとても小さく、誰も気にしないだろう。だが、自分では気になってしまう。職場で余計なことを言ってしまっただとか、本当にどうでも良いようなことが一日の後悔として残る。自意識過剰で、自分を完璧に見せたいと思っている。ノーミスで一日を終えたいと常に思っている。それが自分を苦しめているのではないか。

 

 

 

僕は仕事で自分の予想していないことがあると態度に出してしまう。自分としては自分の作業が期日に終わるようにスケジュールを立ててこなしているつもりが、先方の急な変更で期日直前に追加作業が発生してしまう。その急な変更を僕に伝えてくる人に文句を言っても仕方がないのだが、(出来ないとは言えないので、もうやるしかないのだが)「直前に言うの止めてもらっていいですか」と余計なことを言ってしまう。言われた人のせいで追加作業が発生したわけではないのは、冷静になればわかるのだが。

 

それを笑顔でこなすことがどうしてもできない。周りの人が文句を言わずにやっているのを見ると、急な変更に対応することがそれほど苦ではないのか、もしくはそんなことで気分を悪くするほど子供ではないのか、どちらかなのだろう。なので、僕は怒りが収まると恥ずかしくなってくる。なぜ怒ってしまったのかと。簡単に感情的になる人は僕が一番嫌いなひとのはずなのに。

 

若い頃からずっとこのことで悩んでいる。怒らなければいいというのが解決策なのだが、それができない。抑えられない。

 

 

 

こんなことで悩む必要もないとも思うのだけれど。周りを見れば、自戒なんてせずに奔放に周りに迷惑をかけ続けている人もいるわけだし。ああいう人も家に帰った後に今日の自分はひどかったなと恥ずかしい気分になっているのだろうか。

 

この繰り返し。自分の良く見せようと努力するがうまくいかない。それを放棄して奔放に振る舞う。自己嫌悪になる。自分を良く見せようと努力する。

 

ああ消えたい。

「見て見ぬ振り」という大事な能力

先日、友人が仕事の愚痴をこぼしていた。

誰がやってもいい、宙に浮いた仕事が自分のところに不運にも連続で回ってきてしまったという。そのこと自体に腹を立てていたわけではなくて、同僚がそれを見て見ぬ振りをすることに愚痴を言っていた。

 

彼は同僚に「やってもらってもいいですか」と自分から言うことができなかったらしい。自分ばかりで不公平だと正当性を訴えるのに気が引けたそうだ。その気持ちはなんとなく分かる。だからこそ、見て見ぬ振りをするひとらに対してストレスを感じてしまう。

 

今の職場にはあまりこういうことはないが、今までの職場ではこういったことは自分にも頻繁に起きていた。自ら動いて同僚を助けたこともある。だが、逆の立場になったときに誰も助けれくれないという状況が続くと、より一層悲しい気持ちになる。どんなひとでも似たような経験があるのではないだろうか。助けてもらったときも当然ある。

 

言い方が難しいが、ストレスを手放すには「見て見ぬ振り」をすることも大事だと近頃は思う。自分のためなのだ。あの人が大変そうだから助けてあげようと、本来は優しい気の利く性格でないのに背伸びをして人に親切をすると、それが返ってこないときに人を恨むようになる。

 

親切の押し売り。人のためと始めたことで最後に人を恨んでしまっては本末転倒だとも思う。だからこそ、自分のクソさを認めて見て見ぬ振りに徹するのである。自分に望まない役回りが来たとしても、それは公平だと自分に言い聞かすことができる。今まで他の人がやってくれてたから自分の番だと理不尽を感じずにストレスを手放すことができる。

 

言い訳をさせて欲しい。僕だって最初から悪人になろうとして生まれてきたわけではない。だが、笑顔を作ってなんでも人の言うことに従ったり、理不尽なことにも文句を言わずに黙っていると、カモにされるということをここ数年身に染みて感じるようになった。僕は根っからの良い人ではないから、良い人を装うにはかなりの努力がいる。努力の末に人にいいように利用されるようではたまったもんじゃないよね。

 

 

 

自分に対して厳しい人は自分だけに厳しくすべきだと思う。だがそれはかなり難しい。自分にばかり厳しく接していると、楽をしようとする他人は必ず存在するので、そういった人に対して厳しい目を向けるようになる。

 

例えば、誰がやってもいい役回りを職場のためと思って自ら買って出た人がいたとする。最初のうちは周りから有り難られたり、職場に必要な人と思われているような気がして本人は気分良くしているが、時間が経つと人は間違いなく感謝しなくなる。やって当然と思われるようになる。そうなると自分が損をしているような気分になり今直ぐ手放したいと考える。もしその役回りを辞めたいと言ったとしたら、「あなたの担当でしょ」と責められるかもしれないし、周りにその役回りを渡そうとしても誰も受け取ってはもらえない。結局、親切心から始めたことで、自分の首を絞めてしまう。感謝されるべき立場であるのに疎まれるようになる。どれだけ正当性をもって周りに訴えたとしても、周りは聞き入れてくれない。

 

これは僕が身をもって体験した。僕の被害妄想も混じっているかもしれないが。被害者のような書き方をしているが、実際は僕自身のせいでもある。何度も繰り返し書くが、背伸びをして、人によく思われたいがために、後先良く考えずに自分を犠牲にする必要はない。親切にするのであれば、それが感謝されなくても、返って来なかったとしても文句は言ってはならない。

 

 

予防線を張る毎日

明日もなにも起きませんように。

 

前向きにならずに、どうせひどい一日になるのだろうと予防線を張るのは、自分が傷つかないようにしているのでは。

 

世の中は糞だとか、悪い人ばかりだとか自分に思い込ませて、いざそういったことを思い知らされる出来事に遭遇したときに狼狽えないようにするためだ。無意識にやっているのかもしれない。

 

毎日、今日もなにも起こりませんようにと考えてしまう。

 

前向きに考えることができていたときもあったはずだ。いつから止めてしまったのかは分からないが、理不尽なことに傷ついたり、疲れたりして必死に予防線を張るような考え方をするようになってしまった。

 

前向きに生きられている人は、僕のように弱くはない人か、もしくは理不尽なことを避けられる恵まれた人なのだろう。

人生旅行説とは

今週のお題「人生最大の危機」

 

僕はこれほどまでに辛い辛いと毎日生きていながら、自分の過去を「あんなことやこんなこともあったなあ」と振り返ることが嫌いではない。当時どれだけ嫌な思いをしていたり、余裕がなかったとしても今思い出すとどれも良い思い出に変換されている。20代半ばから現在に至るまでの僕はどの場面でも余裕がなかったと思うが。

 

去年の夏場あたりは僕の半生のなかでも、一番取り乱した時期だった。自分では鬱だと思い通院までした。そんな経験も今振り返るとあとときは大変だったなあと渦中にいる自分を褒めてあげたいような端から見たら気持ちの悪い感情が湧いてくる。

 

かつて「人生旅行説」というのを聞いたことがあって、僕にも当てはまるのではないか。(ネットで調べたら、松本人志が考えたものらしい。)

 

旅行は意外とストレスが多く(普段は知らなかった友人のガサツな一面にイライラしたり、夜はイビキで寝れなかったり、)旅行中は思っているより楽しんでいない。だが、帰ってきて振り返るとあのときは楽しかったなあと思ってしまう。

説の概要はこんな感じ。

 

 

 

僕が自分の失敗やら辛い経験を今気分良く振り返ることができるのは、どの場面も僕が必死でやっていたからではないか。余裕がないなかで、たびたび自暴自棄になりながらも、(気持ちが悪いのでこういう言葉はあまり使いたくはないが)一生懸命やってきたからではないか。

 

毎日自分を責めてばかりいるのでたまには褒めてあげたいと思った。人生旅行説を使うことができることは悪くない。過去だけでなく、今を楽しめたら一番良いのだが。

 

 

 

いつもの愚痴

どうしたら前向きに生きれるのだろう。

 

同じようなことばかり書いてしまうが、毎日同じようなことばかり考えているので仕方がない。

 

辛い辛いと暮らしているなかで、それを覆すほどの良い出来事なんてそうそう起きないはずだ。全く起きないと言ってもいい。

 

仕事をしたくない。仕事をしなかったら、生活できないし、他にやりたいこともない。無職のときはもう一度、働いて自分で稼いだお金で生きていけたら満足だと思っていたのに、いざ繰り返しの毎日が始まるとなんのために生きているのか分からなくなる。

 

全ては考え方なのは分かっているけれど、本当に変えられない。間違った方法かもしれないが、毎日前向きにと言い聞かせたこともあるが、そんなのは一日すら続かない。

 

高校のときも似たようなことを思っていたかもしれない。今と比べれば、高校生のときは友人もたくさんいて、毎日忙しく過ごしていてとても楽しかった記憶がある。だが、当時も何かあれば愚痴を言っていて、楽しみにするイベントごとがないと日常的に頑張れなかった。なので友人らと数ヶ月に一度ほど皆で集まって遊ぶことを計画していたのだが。

 

今はそんな友人すら身の回りにいない

 毎日、楽しいこともなく、楽しみにしていることもなく

 毎日、楽しいこともなく、楽しみにしていることもなく、些細なことにイライラしたり、大袈裟に悲観したりして、つらいつらいと生きている。ベッドに入り天井を見上げたときに、明日が来なくてもよいのではと考えたりもするが、翌朝、普段通りのなんの希望もない朝を確認すると、行きたくもない仕事に向かう。ひとに疲れている、ひとを怖がっているため、深く知ろうとせず、深く知らないのでほとんどのひとが利己的で自分にとって害のあるものだと感じてしまう。警戒しているからか、どうせ今日もひどい一日だろうと保険をかけたりするが、願ったり叶ったりで実際にそれ以上のひどい一日になることが多い。

 

すべては自分のせいなのは分かっている。自分の周りにはおかしなひとが多いだとか、自分はひとよりも不運だとか、そんなことは自分の考え次第で変えられる。些細なことでどん底まで落ち込んだりしなければいいだけの話なのに、それがどうしてもできない。分かっていても気分が変わらない。ということは自分が変わらない限りずっと不幸なままなのだ。分かっているけれどできない。

案外うまくいくこともあった

仕事で嫌な思いをしそうな案件があり、どうせまたひどく落ち込むのだろうと考えていたのだが、案外うまくいったようで小っ恥ずかしい気分だ。素直に安心したり、喜べばいいのにそれができず、思い出す度に本当に喜んでいいのか、まだ罠が潜んでいるのではと疑心暗鬼になる。

 

人から好意的な言葉をかけられると素直に受け取ることができず、せっかく僕のことを良く思ってくれるひとができたというのに、いつか僕が失態を犯してその人の信頼を失ってしまうことを恐れてしまう。