Death March 無職の行進

止まない雨は存在した。

正しさの勝負

「なぜ」だとか、「どうして」と考えたとしても、行き着いたところに自分が納得できる答えなんてないから、考えない方がマシ。自分が正しいときでも、正しさの勝負を脳内でしない方が良い。自分が正しかったと確認すればするほどストレスは増して、一矢報いたいとムキになる。

 

どれだけ心が真っ白な状態からでも、嫌な気分になることができる。なぜ僕ばかりだとか、なんであんなことを言われなければならないだとか、あんなやつになめられることが許せないだとか、どれもこれも最大限に僕を苛立たせる。そんなことを一度でも思い出すと、一日を無駄にしてしまう。

 

毎日を苦しまずに過ごすにはできる限り何も考えないことが重要だということに今更気がつく。

 

僕が幸せを感じられないのは、不運なわけではない。感じられる感性を失ったのだ。何を食べても不味いと感じてしまう舌になってしまった。何を食べても美味しいと思えた方が幸せに決まっている。些細なことでさえ、不味い!と皿を投げつけたくなる。

 

多少の誤差はあるだろうが、自分の身にも悪くはないことは起きているはずなのだ。

 

幸せを感じるためには緊張も必要だ。一日ダラダラと過ごした後に酒を飲んでも、何か物足りない。一番良いのは達成感なのだろうが、今では仕事でそんなものを感じることはない。なので取って代わるものはただのストレスだ。仕事でストレスを十分に感じて、それから解放された勢いでビールを飲むとより美味しく感じる。

 

やはり、嫌なことがないと「嬉しい、楽しい、幸せ」を感じることができないのだろうか。ハードルを下げて下げて、やっと幸せを感じることができる。悲しいことだねえ。

毎日過去最低の自分を記録

このブログに色々と書くのを一旦止めようと思う。

 

ネットで見つけた偉人の名言の一つに「自殺を思うことで耐えられない夜が甘美なものとなる」(誰のものなのかも覚えていない。意味も原文と違っているかも。)というものがあった。僕はこの言葉がかなりしっくりときた。

 

自殺のことまでは実際に考えてはいない。僕の身に長く続くつらいつらいというこの状態は自分が無意識のうちに引き寄せているのかもしれない。精神的にいっぱいいっぱいで、毎日がつらいという体感に嘘はないが、どこかでその中にある隠れた甘味を否定できない。大学生がファッション鬱を演じがちだと勝手に思っているが、僕はいい齢をこいてそれよりスケールの大きい壮大な自慰をしているのではないか。

 

世の中の被害者ぶることの恥ずかしさに今更気がつく。言い訳ばかりでつくづく自分が嫌になる。毎日、過去最低の自分を記録し続けている。当初は自分にも主張する権利はあったのだと思うが、今では僕に非があるので責められかねない。自分としてはこの世の中に順応していっているのだと言い訳をしてきたのだが、ただの嫌われ者、異常者になってしまった。

 

このブログに書いたことに嘘はないが、読み返した時に行き過ぎていると感じる。自己暗示のように自分の言葉でより深みにはまっていく。同じ表現でつまらないものばかりだ。

 

自分で自分の首を絞めて辛い辛いとオナニーすることは止めにしたい。自分の考えが合っているかは分からないが、試してみる価値はある。なんでも良いので策を投じたい。

人は大差ない 

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今後の人生で一生懸命に頑張ることなどあるのだろうか。仕事、趣味、人など何に対しても斜に構えるようになってしまった。自己評価でしかないのだが、以前は真逆の人間であったと思う。周りからしたら面倒で暑苦しい人であっただろうが、何事にも真剣に向き合って手を抜いたり、楽を選んだりするような人間ではなかった。僕の仕事の出来が悪かったために一生懸命にやらなければやっていけなかっただけなのだが。

 

何かにもう一度、熱くなれたらと日々思う。パチンコなどのギャンブルに走る人が多いのも分かる気がする。一瞬でも人生を賭しているような興奮が日常には必要なのだ。僕にも今後見つかるのだろうか。そう思えているのは、まだ何か諦め切れてはいないからなのだろうか。

 

もう一度エンジンをかけたいのだが、今までに何度も覚悟や決心を反故にしてきたせいで自分のことが信用できない。どれだけ意気込もうが、一生に一度と奮起したところで僕の軟弱な感性のせいで、いとも簡単に心が折れて諦めてしまうことを僕は誰よりも知っている。

 

若い頃に無我夢中でやれたのは「自分が頑張った」からではないと思う。学生の頃に勉強の成績が悪くなかったのも「自分が頑張った」からではない。ただ自然と「そういう環境にいた」からだ。友人らの遊びの誘いを断りながら、半強制的に親に部屋で勉強させられていたことを嫌だとは少しは思っていたかもしれないが、成績を褒められたり、注目されることが好きだったこともあり「無理をした」という自覚はない。

 

早朝から終電まで現場仕事をしていた二十代の時も「自分は頑張っている」という自覚はなかった。友人らと違って土日や祝日の概念もなく、十連勤をこなせていた自分も「無理をしている」という自覚はなかった。むしろ「好きなことをやれている」という喜びや誇りに似た気持ちを持っていたかもしれない。今ではその頃の辛い記憶を忘れてしまっているだけかもしれないが。

 

比べて、ここ数年の自分にはだいぶ無理をさせていると自覚がある。今の自分のやっていることが一番楽であるのに。今では職場に行って座っているだけでも耐え難いほど辛い。人のなんてことない一言に傷付いたり、ストレスを抱えてしまう。若い頃だったら何とも思わなかったことに取り乱して、狼狽える。この感性を早く手放したいが、もう感じるようになってしまったので取り返しがつかない。この「思っちゃうんだから仕方がない」も最近のトレンドだ。

 

今までは頑張るために自主的にエンジンをかける必要などなかったのだ。一番仕事を抱えていた時も「やらされている」という実感もなかった。世の中の頑張っている人たちは僕がそうだったように「自然と頑張れる環境にいる」だけではないのか。

 

成功者は人よりも努力したから人よりも良い生活をしていると胸を張りたがるかもしれないが、先天的な持ちものを武器に威張られてもとも思う。(当然、人よりも苦労や努力をして成功した人もいるかもしれないが。)歌が上手けりゃ人前で歌おうと思うし、スポーツの才能があれば人よりも練習をしようと思うだろう。外見についてもそうだ。面が良ければちやほやされる。世の中が優しく暖かく接してくれれば、頑張れるのは当然ではないか。

 

若い頃からそう感じてきた。同僚の女の子には手取り足取り教えて、何か結果を出せば賞賛される。だが、僕のような箸にも棒にもかからないようなやつには、陰湿、執拗に嬉々として心を砕きにかかる。あれだけちやほやされれば、仕事が好きになるのは当然だよなと横目に、それでも負けじとやっていた自分がいじらしい。

 

大半の人の許容量、努力量には大差がないという仮説。まさに負け犬の遠吠え。

 

無職の人の努力が足りないとは思えない。頑張れる感性を持っていないのだ。もしくは外見や長所など先天的な持ちものがないために、世の中に冷たくされて不貞腐れてしまっただけだ。自殺をした人が人よりも弱いとも思えない。ただそういう感性に生まれてしまっただけだ。

 

職場に職歴が長いのだが仕事ができない人がいる。その人の努力が足りないとも思わない。それは先天的な能力不足なのだ。人は大差ないと言いつつも、能力にはだいぶ差がある。それが余計にややこしくする。

 

最近はこんなことを言い訳がましく考えていた。そんな中、ネットでこんな言葉を見つけた。

 

「死ぬ気になればなんでもできるだろ」死ぬ気にならなくても、何でもできちゃう人のセリフですね。

 

顔が良くても性格が悪かったら長続きしない?その通りだよ。不細工は始まりすらしないんだよ。

 

これらは秋葉原通り魔事件の加藤智大の発言として紹介されていた。僕の前述した内容と考え方が似ていると思った。だからなんだという話なのだが。悲しいかな、彼の言葉を負け犬の遠吠えと切り捨てることができない。

 

自分の境遇を人のせいばかりにしても、誰もそれを修正してはくれないし、慰めもしてくれない。不貞腐れて部屋に閉じこもったとしても、誰も部屋の扉の前で説得をしてくれない。泣き喚いたところでこの世の不公平、理不尽を誰も詫びてはくれない。それがこの世の中の最も残酷なところだと思う。

 

自己承認欲求のおばけ

お題「#おうち時間

 

僕だけが思っていることではないとは十分承知している。

家にいることが多くなり、ネットを通じて過多な情報が入ってくる。僕は検索エンジン周りのネットニュースをついつい見てしまう。それが自分のためになっていないのであれば、止めるべきなのは分かっている。

 

まず、WHOやら日本政府やら各国代表らが何かを言う。それに対してテレビで識者や著名人が意見を言う。誰が何に対してこう言ったと切り取られてネットニュース化される。それに対してさらに一般人も含めて大勢の人が反応を示す。この一連の流れに心底うんざりしているのは僕だけではないだろう。

 

専門知識のない人が生き死にに関することについて不用意に発言して、それを鵜呑みにした視聴者を危険に晒すとは考えないだろうか。という意見はネットでもいくつか見つけたが、まさにその通りだと僕は思う。

 

余談だが、

ミュージシャンが政治的発言をすることが以前から不快だった。ちょっと好きだなと思える歌手が出てきても、そっち系の人だと分かるとすぐに手を引っ込めた。政治に興味を持ったり、参加することは当然良いことだと思う。だが、馬鹿な人たちを扇動してしまう危険性を理解していないように思える。好きなアーティストが言っていることだからと盲目的に言うことを聞いてしまう人も必ずいると思う。

 

僕がなによりいけ好かないのは「そこまで力を持っている」という勘違い具合だ。飽くまで愛されているのは楽曲や個性であるのに、それとは無関係な政治的発言をして人を動かそうとするつけあがり方が気に食わない。

 

自己承認欲求の存在が否定できない。(僕は自己承認欲求やら自己肯定感やらをいっしょくたにしてしまっている。)誰しもが持っていることに間違いはない。僕もこのブログに書いて人の共感を得たいという気持ちが確かにある。

 

自己承認欲求に囚われた人ほどみっともない人はいない。自分もそうはなりたくないとは思いつつも、自分の中にもそいつがいるのが確かに分かる。賞賛を得たいばかりの薄っぺらい意見を言う芸能人にも飽き飽きする。逆張りばかりの文化人気取りの話題作り、炎上狙いも度を行き過ぎて悲しさまで漂う。僕ばかりではなく、皆満たされていないのだなと思う。どれだけお金があっても、メディアに取り上げられて有名になっても、人に認められたいと願ってやまないのだ。

 

色々言いたい気持ちがあることは十二分に分かる。テドロスがどうだ、安倍首相が、都知事が、マスクがなどと素人でもごちゃごちゃ言いたいことがある。僕も完全にごちゃごちゃ言いたい側の人間である。この世の中、「絶対にそうすべきではない」もしくは「そんなことをしても仕方がないよね」ということが平気で起きるのだ。僕の職場で起きていることが、全国規模、世界規模で起きている。だから、世界は救えない。

 

先日、職場で「密」を避けるためにと偉い人がうでまくりをしながら色々と案を現場に出してきた。現場の人間としては効率を考えるとその案は受け入れがたいものだった。効率よりも安全を、という気持ちは分かるのだが、そもそも職場にいる時点で密は全く避けられていない。まさにその案について話している時すらかなりの密だった。結局、いくつかの案は偉い人の意向で実施されたのだが、現場では誰もやろうとはしていない。立案者すらその案について忘れている始末。

 

これも、もしかしたら会社側の保険なのかもしれない。後々、訴えられないための「現場ではこれだけ策を打ったんですけどねえ」なのだ。こういうことが日常的に起きる。そして誰もそれは効果ないですよなどと反論は誰もしない。それが社会人なのだ。

 

こうやって偉い人やら責任者やらの判断、意見に反論してしまう僕は子供なのだろう。おそらく偉い人も心のどこかでこんなことをやっても意味ないと頭では分かっているのだが、もっと偉い人にそうしろと言われたらやるしかないのだ。実際、僕の上長は思考停止させたようにすぐに取り掛かっていた。頭が下がる。

 

責任もない人がごちゃごちゃ言うことは簡単だ。このような意味や効果のないことを思考停止で右に倣えで平気でやる人々に辟易してきた。そんな僕はTwitterなどで責任のある人の意見に良い気になってそれっぽくケチをつけている人とそれほど変わらないと思った。

 

 

自己承認欲求の話に戻る。

「コロナファイターズ」なるものを作った知事がいた。この状況下の医療従事者を応援する目的でステッカーやポスターを作ってメディアの前でアピール。当然のごとく批判されてすぐに撤回した。十人中十人が「意味がない」と思うことになぜ気付けないのないのだろう。側近やら部下たちは止めなかったのだろうか。小さな町の話ではなく、中々主要な県の知事だ。そんな人間がこんなことをしようとすることに落ち込む。絶対に僕は気分良く生きてはいけない。生きていても仕方がないと。過剰反応なのは分かっているが、どうしてもそこまで考えてしまう。こいつらにつける薬はないと。

 

dthma.hatenablog.com

 

世の中の人は僕よりも賢くて、深い人たちなのだと無意識に信じていた。社会に出てから世の中から厳しく説教をされてきたせいでもあるのだろうか、もっとちゃんとしないとと自分に言い聞かせてきた。だが、自分よりイケてない人ばかりではないかと気がついた。今まで僕に対して偉そうに叱ったり、説教をかましてきた人らも今思えば、なのである。あのような人たちの話を真剣に聞いてきた自分が不憫でならない。どれもこれも自己承認、自己顕示の類の業ではないか。

 

コロナファイターズの発起人は、自己承認を飛び越えて、この世の英雄になろうとしたのではないか。医療従事者への差別をなくしたいなどという目的はどこかへ行ってしまっていないか。なにかあるたびに叩かれるこの世相で、自分が反コロナの先頭に立ち、民衆に支持される姿を夢想したのではないか。そのステッカーやポスターにかかったお金を渡す方が応援になるのではないか。オナニストのおかずになんかされたくはないだろう。

 

#GratefulForTheHeroes絵

医療従事者にエールを送るためにイラストを描いたらしい。これに対して「安全圏から止めて」という辛辣な反応を見つけて、絶対そう思うよなと思った。参加者は自己承認欲求のおばけだと思う。下手くそな絵を見て誰が頑張ろうと思うのだろう。自宅待機の人がいる中で、出社させられただけで僕ははらわた煮えくり返る思いだった。こんな気持ち悪い連中の自慰のおかずにされたら医療従事者はたまったもんじゃないはずだ。

 

こんなやばいやつが世の中に無数にいると思うと、前途多難だなあとため息が出る。

 

 

 

 

分析

お題「#おうち時間

 

仕事中は早く家に帰りたいとばかり思っている。家に着き、風呂を済まして晩酌をすると何もしたいことがないことに気がつく。毎日が情緒不安定で疲れる。大した労働時間でもないし、作業内容も難しいことではない。皆が僕のように苦しんで毎日を過ごしているとはどうしても思えない。

 

ストレスから攻撃的な言動をすることがあるが、いざその場を離れて冷静になると自分がとんでもなくヤバい人間と周りに思われているかも知れないなどと自分のしてしまったことを恥じたり、頭の中で弁護したり、言い訳を探してばかりいる。考えても仕方のないことを繰り返して頭が疲れる。後悔するぐらいならしなければ良いのにと思うのは毎度のことだ。

 

楽しみのない中で、疲れる毎日を過ごしていると明日なんて来なくても良いと思うようになる。そう思うようになってもう五年は経つだろうか。昨日だって今日だって、来なくても良い日だった。自分の記憶から抜け落ちたとしても内容のない毎日の繰り返し。じっとしていたわけではない。自分なりに環境を変えたり、行動は起こしたのだ。

 

買いたいものもない。会いたい人もいない。やりたいこともない。そのような状況で仕事に身を入れることなどどうしてできようか。明日すら来なくても良いと思っている者が、好きにもなれない連中と一所懸命などできようはずがない。今は、今までもただただ辛い毎日。後ろ指を指されていることをジワジワと感じる日々。むしろその方が自分に合っているなどと見栄を張れる瞬間はあるのだが、僕は弱いのだ。弱いから恥じたり、情けなくなる。大半の人間が日常的にやってのけることができない。

 

今になって分かるのは僕は全てにおいて期待し過ぎだったのだ。自分の人生に対して。世の中に対して。特に人間に対して。人に一方的に期待を寄せることは失礼でもある。今になっても落差が馴染まない。人は邪悪。この先この考えが抜けることなどあるのだろうか。これをどうにかしないと。人は全てについて回る。だがどうしてもこれが真実に思えてならない。

 

別れてしまった友人が僕に対して「その分析止めたら?」と言ったことがあった。自分の考えていることが分析などという大層なものとは思ってはいないが、自分について振り返り考えて自分なりの答えを探す癖がある。彼女はそれは僕を苦しめるだけであって、役には立たないのではと言っていたが、その通りだと思う。僕はこういうことが好きだから続けてしまうのだと思う。何の役にも立っていない。進歩や改善など一つもしていない。分析は自分の変えられもしない欠点をよりくっきりと浮きだたせるだけだ。

 

なぜそんなことを言うのか、したのかなどと自分のことをねっとり見続けていると、人にも同様の目を向けてしまうようになった。人は大差ない。僕も他人も大差がなく、同様にクソである。「人は大差ない」というのは最近の僕の中でのトレンドでもある。このことについてよく考える。このことについてじっくりと語りたい。いつか。

環境を変えたとて

久々に明るい気分になった。酔っていた時に、今いる環境を離れて新しいことを始めることを想像したのだ。

 

寝て目を覚ますと、自分の妄想がいかに現実味のないものか理解して我に帰り、同時に明るい気分も消えた。

 

今回の酔っていた時の妄想を若い頃はシラフでも出来た。だから希望を感じられた。

 

①新しい仕事、環境が新鮮に感じられて謙虚な姿勢で頑張る。

②仕事に慣れてきて新鮮な気持ち、謙虚な気持ちが消え、不満が貯まる。

③問題は環境にあるので、新しい場所でならうまくやれると思い、環境を変える。

以上繰り返し。

 

これを今までの人生の中で何度も繰り返してきた。繰り返してきたからこそ、これ以上やったとて同じ結果になるだろうと思ってしまう。

 

③については今では考えが違う。問題は自分にあるので、環境を変えたとしても同じ結果になると思っている。

 

環境も大差はないと思っている。どこの職場にも自分が嫌いな人はいると思う。今の職場が気に食わないと言って、違うところへ行ったとしても無駄だと思う。

 

僕の実際の職場は悪くはない。時間通りに終わり、休日出勤もなく、怒鳴られたりすることもない。極めて環境は白い。(だが白い分、居心地が良いのだろう、人生消化試合のような人の集まる吹き溜まりのような様相だ。それがまた僕の気分を滅入らせるのだが。)こんな白い職場で不満爆発、つらいつらい、辞めたいと言ってしまう僕はもう生きていける強さを持ってはいない。

 

自分自身の意識が変わらない限り、もうどこへ行ったとしても何をしても無駄なのだ。「今の職場が耐えられない=どこへ行ったもダメ」ということだ。

 

dthma.hatenablog.com

 

だが分かっていても、自分は変えられない。ではどうすべきなのか本当に分からない。

 

仕事辞めたい、つらい、つまらない毎日と愚痴を漏らすと必ず「皆そうやって生きているんだ」と言う人がいる。皆そうやってまで生きている必要ある?

 

 

 

 

分かっていても我慢ができない

毎日をつらいつらいと生きている。今日こそは気持ちを切り替えて不貞腐れずにやろうと思うのだが、些細なことが引き金となって不機嫌になってしまう。一度その状態になってしまうと、「気持ちを切り替えよう」などという意気込みのことなんか一切考えられない。

 

これを毎日、毎週のように何年も繰り返していると、そんな自分にも飽き飽きしてきて、「今日から前向きにもう一度やってみよう」という気が湧いたとしても、どうせ三日坊主にすらならない、一日ですら達成できないと諦めてしまう。

 

僕の気分をそこまで変えてしまう「些細なこと」というのは、主に職場で起きる理不尽なことや失礼なこと、無神経なこと、人の悪意に触れた瞬間のことを指す。僕が客観的に見て、他の人はこの程度のことでは腹を立てたり、気分を害したり、一日引き摺ったりはしないのだと分かっている。だが僕はそれにどうしても耐えられないのだ。我慢していると爆発してしまう時にがある。そのことを「メンタルが弱い」だの「子供だ」と批判されても仕方がないとも思う。誰かが「些細なこと」で腹を立てていたら、僕も自分のことを棚に上げて批判してしまうかも知れない。

 

気分を害する何かが起きると、すぐに「またこれだ、もう何をやってもダメだ、なぜ僕ばかり、周りの人間はろくでもない連中ばかりだ、もう一度やり直そうと立ち上がっても邪魔が入る」と書ききれないほどのうじうじとした自責、他責どちらも入り混じった言葉(近頃は他責の割合が多くなった。)が頭を巡る。そこには「この程度のことで狼狽えるべきではない」という客観視が入る余地はない。

 

僕の心は「折れ癖」がついてしまった。どんなところからでも、どんな小さな衝撃でもいとも簡単に折れてしまう。すぐに「自分カワイソウスイッチ」が入ってしまう。

 

またそのスイッチが入った状態を人に晒されることで自尊心が傷つく。「自分だって自分を変えようとしているんだ、好き好んでこの性格でいるわけじゃない」と主張したいが、主張したいが、主張したいが。

 

 

 

もしかしたら、僕が散々叩いてきた職場のモンスターたちも僕と同じ言い訳をしているのかも知れない。そうなると一概に叩けない。

 

犯罪者だって同じ言い訳をしているのではないか。「我慢できない、自分には耐えられない」と。僕は万引きや盗撮をしたいとは思ったことがない。なので我慢しているという意識すらない。それらをしなくても耐えられる性分なのだ。だが、「理不尽や失礼、不公平を仕方ないと我慢する」ことが耐えられない。自分にどれだけ言い聞かせても、我慢できないことがある。

 

「理不尽や失礼、不公平を我慢することに耐えられない」というのは、自分を正当化するためにそう思い込んでいるだけなのかも知れない。正しくは「我慢するということを知らない、わがまま、自分の欠点や失敗を人のせいにする」ということでしかないのかも。まさに「こどもっぽい」と笑われる性格、気性を自分で「理不尽や不公平を許せない」と必死に正当化しようとしている。これまた、職場のモンスターの典型的な思考の一つだ。

 

 

 

毎日が何の楽しみもなくつらい。人に攻撃された、搾取されたと被害者意識がついて回り、それに過剰反応する自分にも嫌気が刺す。我慢ができずに態度に出して言動を変える。周りにヤバい人と認知されて、疎まれる(実際にそう思われているかは分からないが、僕のしてきたことを考えるとそう思われても仕方がない。)ことで自分が余計に嫌いになる。そんな自分が惨めで情けなく感じる。

 

「我慢したら良いと分かっているのであれば、すれば良いだけじゃないか」という人もいるだろう。だがそれがどうしてもできないのだ。自分の理想とする性格を持って生まれたかった。細かいことを気にせずに、何でも笑って許せる。飄々としていて、カラッとしていて。なりたいのであれば、そう振る舞えば良いのは頭では分かっている。分かってはいるのだが。

 

言い訳の一つとして、両親の性分まで持ち出すのは卑怯者なのだろうか。西村賢太の小説にもそんなことが書かれていたな。