Death March 無職の行進

止まない雨は存在した。

思い込みが強い

出社前にこのブログを書きたくなる。仕事へ向かうことが億劫で、なんでも良いから愚痴をこぼしたくなる、世間に当たり散らしたくなる、そんな気分なのだろう。

 

僕はなにごとにも過剰反応なのだと思う。

 

例えば、僕が仕事で失敗をした時は「周りに出来ないやつと舐められてしまった。悔しい。」と落ち込み、長々と引きずる。

 

仕事をお願いされた時は「なぜ僕ばかり。よくよく考えれば昨日も僕に押し付けてきた。周りにこれだけ人がいるのに。何かの腹いせか?」とまで頭を巡る。だが、落ち着いてから俯瞰で一週間、一ヶ月ほどの長期間で自分を見ると特別自分ばかりが冷遇されていたわけではないことに気づく。

 

新しい業務が職場で始まると決まった時も、「周りの人は楽をしたがるから僕を異動させたがるだろう、上長たちは新しいことを覚えないから苦労するのは下っ端ばかりだ。」とストレスを先取りしていた。ただ「職場で新しい業務が始まる」という報告を受けただけであるのに、人を意味もなく憎み、イライラしていた。

 

対人に関してもそうだ。職場の人に失礼な態度をとられたりすると、なぜか職場全体に対して敵意を持ち始め、最終的には「人はクソだ。」と人類全体まで批判しかねない。そもそもの「失礼な態度」というやつも僕もやりかねないような程度のもので、僕が一方的に批判することは正しいとは言えない。

 

被害妄想が強く、すぐに熱くなり、ものごとを断定しがちなのだ。

 

まだ二十代前半の頃に、惚れていた同僚の女の子がいた。よく男の先輩を含めて飲み歩いて遊んでいた。その女の子といよいよ良い感じになれたのだが、僕の鼻息が荒かったせいか女の子は急に離れていってしまった。よく三人で遊んでいた男の先輩とその女の子、同時に連絡がつかなくなり、あの二人は僕抜きで会っていると確信したことがあった。その時は恨んだり怒っていたわけではなく、男の先輩が僕から相談を受けていたために、彼女によりを戻すよう説得してくれているとなぜか思っていた。

 

ここまで妄想を発展してしまうのはなかなか痛い。蓋を開けてみれば、彼女はただ僕の連絡を面倒がり無視していただけで、先輩はただ仕事をしていただけだった。それを100%、十中八九のつもりで確信してしまう自分は思い込みの強いやつでしかない。

 

さすがにここまでのことを年をとった今はやらないと言いたいところなのだが、もしかしてこれを毎日やってしまっているのではと今気づいた。

 

思い込みで「人間はクソ!」と言ってしまっているのかも。そうであって欲しい。

仙人

心の底から感動したり笑ったりしばらくしていない。生きていれば良いことがあると思わせてくれることもない。気づくことができていないだけかもしれない。周りに期待しているだけ、待っているだけで自らは動かない。

 

今までずっとそうだったわけではない。二十代中盤から三十までは、「人生に満足できていない」という謎の焦りを感じていた。新しい趣味を始めたり、仕事に熱を入れたり、職場の催しに積極的に参加したり、長続きした職場を辞めて新しい業種、職種の仕事を始めたり、人付き合いにも何事にも積極的で自分の人生に真摯に向き合っていたつもりだ。(美化しているだけかもしれない。)

 

だがなにも見つからなかった。やり方が間違っていたのか、見つけられなかったのか、感じられないだけだったのか。新しく始めた仕事もうまくいかず挫折して、前の職場の人にそう漏らすこともできず、自分の決断を正当化するために意地を張る。感じる必要もない劣等感や恥ずかしさで交友関係も細くなり、人が苦手だと言うように、感じるようになってしまった。

 

こうやってじたばたした挙句、手元には何も残っていない。こういうことに苛まれずに一日ゆっくりのんびりできたらどれだけ心地良いだろうか。出社前によく思うのだが、仕事を辞めて、空でも眺めながらゆっくりできたらどれだけ幸せだろうと。

 

だが実際に無職になれば、そんなことやろうとも思わない。せっかくレールを降りたのに、レールを降りてからあれもやろうこれもやろうと考えていたのに、すぐにレールへ戻ろうと必死になる。

 

心が冷え切っている。物事や人と真正面に向き合わない。話しても無駄、何をしても無駄。自分を傷つけないことを最優先に考えて人と深く関わろうとせず、人を信用しない。

 

こうやって斜に構えて、飽くまで装うことは今までにいくらでもあった。装っているうちにいつの間にか本当に心が温まらなくなってしまった。何をしてもどこにいても何をしていても、暇つぶしか気休めにしかならない。休日が回復しているというよりも消化でしかない。

 

そんな自分にも血が通った瞬間があった。テレビのバラエティ番組で「仙人的な変わった暮らし」を特集していた。周りの目を気にせずに自分の好きなように暮らしている姿に感銘を受けた。何人か紹介されていたのだが、どの人も若い時はまともにサラリーマンをしていたらしく、それもまた勇気をもらった。

 

今すぐにその生活を僕もしたいとは考えられない。だが、今毎日を過ごしていて、この繰り返しの毎日が長続きしそうもないと自覚している。転職を繰り返して人間関係のリセットを繰り返してやはり僕は普通の感性ではないのだなと。普通の人であれば(何をもって普通なのかは分からないが、)何食わぬ顔で過ごせる毎日を僕はつらいつらいと過ごしている。行く末は貧困か、心の病か、自殺か。どれも大げさかも知れないが、非現実的だと笑飛ばせない自分がいる。自分を救うためにも、感性が人と違うのであれば人と違った生き方を探さなければならない。

 

 

 

 

怖い

繰り返し、同じようなことをここに書いている。職場のモンスターについてや、電車などの日々のストレス、かつての友人との関係性、恋人や友人のいない寂しさ。同じようなことを書いてしまうのは、毎日同じようなことで頭を悩ませているからだろう。

 

職場へ行くことが怖いと感じている。馴れようが、顔見知りになろうが、これも未だ変わらない。今は職場以外の場所で人と関わることがあまりないので、主戦場が職場になっているが、学生の頃は学校へ行くことが怖いと思うことはなかった。

 

僕が怖がっているのは、道理の通用しない相手だ。誰も怒鳴りつけたり、嫌がらせをしてくるわけではない。職場で常に焦っていて、周りに助けを求めてくる人がいる。

 

以前はよく分からないまま、彼女の言う通りに従っていたのだが。僕が自分自身の仕事について他の人と話している時でも、彼女はまったく気にもせずに伺いもなく質問をしてきたり、呼びつけて助けを求めてくる。人と話していたり取り込み中であるならば、「すみません」だとか、「今大丈夫ですか」と一言あるべきだと思う。いざ話を聞いてみれば、そこまで急を要するものでもなく、彼女一人で事足りていたり。

 

彼女に名前を呼ばれるだけで、怖いと思う。

 

 

斜に構える

休みの日にすることがないと時間を持て余す癖に、連休明けの出社前となるとたったの一時間でも惜しい。会社に行くことを出来る限り先延ばしにしたい。このまま会社へ行かず、当てもなく街をふらふらと歩くことが出来たらどれほど幸せかと思う。だが実際に休みの日になるとそんなことをしようとも思わない。なぜか時間をいたずらに過ごしてしまう。

 

怒ることが減って、理由もなく不安で寂しいという感情に苛まれている。イライラすることが全くなくなった訳ではないが。友人がいない、恋人がいないことで寂しさが顕著になっていると思うのだが、根本の原因はそれらではないのでは。誰からの庇護もなくこれから生きていかなければならないということに漠然と不安があるのだ。

 

何を今更、齢三十を超えてそんなことに不安を感じているのかと思われるだろう。誰からも気にかけられることもなく、心配されることもなく、愛されることもない。拗ねても、機嫌を悪くしても、落ち込んでいても、焦っていても、なんだあいつと思われるだけだ。学生の頃であれば、親や友人らに心配してもらえただろう(当時は大きな悩み事がなかったので、親や友人らに実際に迷惑をかけたことはなかったが、)。

 

家に帰れば家族がいて、学校や塾やクラブ活動でも友人に囲まれていた。今のように怒りや虚しさに支配されることなどなかった。人が嫌いだとか、生きていることを止めたいと考えたことすらなかった。自然に振る舞えていたあの頃が恋しい。

 

人が嫌いと人を遠ざけるだけでなく、今では見下している。斜に構えて、何事にも真剣に取り合わないことで心を乱されることが減った。だが、これを続けていると人生が余計につまらないものに感じられる。

 

以前であれば、新しい仕事をまかされた時は心から喜んでいた。自分の成長のためと、奮い立たせて面倒がらずに向き合っていた。「意識高い系」だったのだ。面倒臭いと楽な方へ逃げている人を嘲笑していたし敵視していた。

 

今はなんでもかんでも「人に利用される」と怯えて、自分でやらなくても良いことであれば出来る限り避けたい。誰かに押し付けられると心底イライラする。「やるべき、やらなくても良い」を判断する箇所は正しく機能していると自分でも思えない。たまに仕事とということすら忘れて、何かお願いされると「なんで僕がやらないといけないのか」と答えそうになる。よくよく考えれば仕事なのだからお金を稼ぐためには何かをしなければならないということを思い出す。とにかくなんでも面倒臭い、利用されたくないと逃げ腰である。親切、優しさということがどういうことを意味しているのか自分でも分からなくなっている。「うまく利用されてくれる人」が優しい人なのだろうか。「犠牲になること」が親切なのだろうか。ホームパーティーで皿洗いをさせられた時ですら頭に過ったとなるとかなり重症だ。

 

仕事の作業をすること自体はむしろ好きなのだ。だけれど、サボろうとする者や、足を引っ張る者、「期待している」を決まり文句に押し付ける者、幅を利かせることが好きな者、彼らの存在が人に紛れて仕事をすることを難しくする。僕は怠けものではない。僕は間違ったことをしていない、間違った考えももっていないと思っているからこそ、人の多様性を認めることができない。彼らとうまくやる努力をしようと思えない。間違っていることをしているのは僕ではなく彼らと「子供のように」主張してしまう。

 

単純作業で、作業量が予め決まっていて、それだけを終えれば決まったお金がもらえるという分かりやすい仕事の方が向いているかも知れない。そんな仕事はあるのだろうか。そんな仕事ですら、数ヶ月でもしたら文句を言うのだろう。

 

かつてであれば、面倒臭いタイプの人とでもうまくやるべきだと自分に言い聞かせて、自分を曲げることもできていた。今ではそういう人と関わることすらしたくない。なぜ彼らを僕が負担しなければならないのだろうか。雇おうとした人は誰だ。なぜ足を引っ張る害悪な彼らを野放しにしているのだ。正論を片手に正しさの綱引きに持ち込もうとする。だが手繰り寄せられるのは逃れようのないストレスだけだ。

 

こういった仕事への向き合い方、人との向き合い方が余計に寂しさを募らせるのだろう。斜に構えていたって、目先のストレスから逃げているだけであって、自分のためにはなっていない。分かってはいるのだが。

 

楽な生き方を望めば望むほど、傷つくことは減る。だがそれは何にも発展することはない。この状況を打破するためには、このままではいけない。分かってはいるのだが。

 

心穏やかになりたい。常に切迫していていつか音を立てて破裂してしまうのではと思うし、破裂するのであれば早くして欲しいとまで思っている。気を許せば、過去の嫌な出来事や、これから起きるかも知れない嫌な出来事を妄想して勝手に不安になり、人を敵視する。人を蹴散らしている時はストレスは軽減できるが、ふと虚しさが襲う。自分の弱さに辟易する。

 

静かに眠りたい。明日が来なくても良いと目を瞑っても何も癒されない。負の感情に常に苛まれていて、心を許せる暇がない。友人らと心から笑うことなんて久しくない。一言交わせるだけで天に昇るように気持ちになるほど、女性に惚れることもなくなってしまった。昔に戻りたい。

 

 

 

 

 

寂しい

ただただ寂しい。

 

休日であるのにやりたいことがない。昼寝をして酒を飲んで一日が終わる。ベッドに横になった時も、昼寝から目を覚ました時も明るい感情や心地良さなどなく、つまらない時間の使い方をしてしまったと虚しい気分になる。家にいても仕方がないと無理矢理、身体を動かし外出をするが、体力とお金を消耗するばかりで外出中は「早く家に帰りたい」とばかり思っている。人混みを歩くだけでどっと疲れる。

 

親からの連絡を今は面倒に思っているが、もうしばらくすればそれすらもなくなるのだろう。身寄りがいなくなるということは今までは想像したことがなかったが、想像を絶する心細さなのだろう。自分を気に留めてくれる人がいないということほど寂しいことはない。

 

今は馴染めていない職場で飲みに行こう誘われることもしばしばあるが、年をとればそんなこともなくなっていくだろう。僕もいつか職場の人に友人としての役割を求めるような人間になっていくのだろう。寂しさを職場で紛らわすような自分が最も嫌悪しているような人間に。

 

滅多にないが、女性と飲みに行ったりできることも有り難みを感じるべきなのかもしれない。年をとれば、完全なおじさんになってしまえば、対象からもはずれてしまって惚れた腫れたなどとは言えなくなってしまうだろう。

 

今のうちが華なのかもしれない。これからもっともっと寂しく虚しくなっていくことを想像すると怖くなる。この寂しさに常に囚われているわけではない。イライラと寂しさは共存はしない。職場のことで頭がいっぱいになっているときは寂しさを感じる余裕はない。依って僕に限って言えば寂しさを日頃感じることはほとんどない。ただふとした時に寂しさが襲ってくる。今現在の寂しさを感じているというよりも、今後を想像すると恐ろしいのだ。

 

では、誰かと会って寂しさを解消しようとするのだが、結局止めてしまう。このブログにも何度も書いていると思うが、友人らとは関係性が変わってしまって昔のように楽しく会えなくなってしまった。遊んでみてあまり面白くない、居心地が悪いと感じることを何度も繰り返して、いつの間にか連絡をしないようになってしまった。心のどこかでこちらから遊ぼうと連絡をすることが癪だと感じている節もあるのだと思う。乞うように縋ることがしたくない。それをするよりも一人でいた方が良いとまで思っている。だが寂しいのだ。常にその狭間で揺れている。

 

余談だが、

数少ない未だに連絡をとっている友人らに声を掛けるも、忙しいやらでなんだかで捕まらず。彼らにどうでもいいと思われているのだろうか、そんな気がしてならない。なぜかおもしろいもので、僕が会いたいと思う人は捕まりづらく、遊んでも大して面白くない人ほど遊ぼうと連絡してくるのだ。

 

友達と会う休日が楽しみで、前の日の晩からドキドキできていた頃がうらやましい。冗談ではなく、僕にもそのように感じられる時期が確かにあった。特別なことなんて求めていなくて、ゲームをしながら馬鹿話ができればいいのだ。友達もたくさんなんていらない。ただ一人だけでも一緒に昔のように笑えればいいのだが。

 

無題

人のことを無下に扱うことで、肯定感を得ている人間がいるのではないか。

 

親しくしている人から、そういうことをされると虚しくなる。「あなたのことなんて気にも留めていなかった」と意思表示をすることがなぜ気持ち良いと感じるのだろう。自分が偉くなった、マウントをとったという気分にさせるのだろうか。そういうことをしている一方で、親しい素振りをする。本当に人間と付き合うということは難しい。

 

よくよく考えれば、僕もこういうことをしてしまう。

怨嗟の鬼

恨みつらみが消えない。そろりそろりと忍び寄って来て、気を抜くとそんなことで頭が一杯になっている。

 

世の中には理不尽なことが必ずある。それを許せるかどうかは、自分が幸せかどうかによるのではないか。もし自分が満たされていれば、「そんなことあったけ」、「ま、いいか」と無理せず流せるのだろう。だが、今現在の自分が苦しんでいると、見逃すことができない。当時は気にしていなかったことまで引き寄せて、勝手に追回して目の敵にする。こんな状態では幸せなど感じられそうにない。

 

当然、僕自身も誰かの理不尽になっている、なっていたと思う。だからこそ、許すべきだとは思うのだが。